2025年10月14日に、岐阜県養老町にある「大巻薩摩工事役館跡(宝暦治水事業)」を訪ねた記録です。
ここは薩摩藩の代表として、木曽川の治水工事を指揮していた平田靱負翁の終焉の地でもあります。
この宝暦治水については、何冊も本が出ており、そのうちの
・宝暦治水血涙薩摩義士物語/池水喜一著
・宝暦治水記/池水喜一著
を読んで感激し、この宝暦治水工事について調べたところ、ここに平田靱負翁の銅像があるとわかりました。これはいつか行かねばと思い、そのチャンスが巡ってきました。
前述の本は、かなりのフィクションが混ざっており、少しでも本当のことが知りたかったのもあります。
宝暦治水工事とは、AIのまとめで下記のようになります。
江戸時代に幕府から命じられた木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の洪水対策工事で、薩摩藩が約1年3ヶ月で完成させました。目的は、複雑に絡み合った三川を分流させて水害を防ぐことでしたが、工事は大工などの専門職人の雇用を禁じられ、多額の費用と多数の犠牲者を出し、薩摩藩に大きな打撃を与えました。工事を完成させた薩摩藩士は後に「薩摩義士」と呼ばれ、地域の人々から感謝されています。
実際にはこの工事後も洪水は起きてしまい、明治に入ってオランダの技師ヨハネス・デ・レーケ指揮のもと再度工事が行われ、25年を経て1912(明治45)年に終了し、下流域の水害は著しく減少したとのこと。
そもそも治水工事に関してはなんの知識もない薩摩義士1,000人ほどで、しかも当時薩摩藩には多大な借金があったのに、そこにさらに無理をさせてるわけですので、1年後の幕府の検査をパスしただけでも多大なる貢献を果たしていると言えます・・・が、検査をパスした跡に、色々な責任を取って平田靱負翁が切腹するくらいですから、当時の感覚ではどこまでの思いがあったのか考えさせられます。
少なくとも、現代の政治家のように、切腹か切り捨て御免になっても不思議じゃないくらいの不祥事を犯しても、誰か(大半は部下)のせいにするとか、注意で終わるとか、びっくりする現代になってしまいました・・・。
さて、まず駐車場側に、下記のような石碑が建っています。
鹿児島弁で、「(工事が終わったのに故郷の地へ)戻ることができず無念だったでしょう。桜島は貴あなた方の気高い魂が噴き出すよういに、今もこんな様子ですよ」とあります。

裏側は、標準語訳です。
鹿児島では有名な、幕末の勤皇志士である平野国臣が詠んだ歌に「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし桜島山」がありますが、それを思い出せます。

道を挟んだところに、整地碑と平田靱負翁の銅像があります。

こちらが整地碑です。

こちらが平田靱負翁の銅像です。

そこから更に右手の休憩所に、その歴史がまとめてあります。

まず「史蹟大巻薩摩工事役館跡」の説明と、亡くなった方々の説明に続きます。
前述の本によると、純粋に工事の事故で亡くなった方はわずかで、大半は幕府の無理難題に抗議するための切腹(と報告すると、色々問題があるため病死とされた)と、流行り病による病死が多かったようです。

続いて、「宝暦治水当時の地形と事蹟の場所」です。
こちらの地図ではよくわかりませんでしたが、「木曽三川の洪水と治水の歴史-揖斐川・長良川総合管理所」がさらにいくつかの地図を加えて詳しく説明してありました。

亡くなった方々の祀ってある場所です。

宝暦治水史跡案内略図です。今回は時間の都合もあり、回っていない箇所が多いです。

平田靱負翁辞世の句です。
「住みなれし 里も今更名残りにて 立ちぞわずらふ 美濃大牧」
このことから、現在は「大巻」書きですが、当時は「大牧」書きだったことがわかります。

ふと気づくと、ズボンが・・・。
どうやら、最初の石碑の裏(すぐ近くに田んぼがありました)に回ったときについてしまったようです。
少しだけ余裕があった時間が、これを除去するのに費やしてしまい、無くなりました。
近くにたぬきかあなぐまかがいて、その写真を撮ろうとして、ちょっとした茂みに入ったので、それかと思いましたが、違いました。
ワタクシも人のことは言えませんが、定期的に草払いするとか、メンテナンスしてほしいと思います。

「宝暦薩摩治水工事顕彰碑」です。小さな神社のようになっています。

横からも撮ってみました。

時間帯や季節、次節によっては明かりがつくのでしょうか?

当時とは色んなことが変わりすぎて、読んだ本以上の知識は得られませんでしたが、さらに色んなことを学んで、先人の苦労を偲びたいと思います。